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ふと、とりまとめようとして思ったけど、これ全部書いちゃっていいのかな、とか。だがしかし、自分の筆力だったら、大して人に伝わらないだろうから、まぁいいか。
ていうか、メモを見直してるけど、書籍「大阪アースダイバー」に書かれているようなところは、一切メモってないし、後半の江氏とのだんじりまじりの海民談義のところは、普通に楽しんで聞きに徹してしまってたから、ここもメモってないし。
まぁ不完全だな。もし、ググって期待してたどり着いた人がいたら、先に謝っておきます。
二日目。
会場は、追手門学院 大阪城スクエア。とりあえず岬の突端です。(あー、大阪アースダイバーで画像検索すれば、あぁそれよりも本をご購入されればお分かりいただけると)
会場入り時、平松邦夫大阪前市長とエレベーターで一緒になる、など。一応ツイッタで呟いてみたのでここにも書いてみる。
開始時間直前。タクシーが迷って中沢さんが遅刻との報あり。
とりあえず自分は基本大阪人ではないので、今回初めて、「追手門」は「おってもん」と読むんじゃないことを知る、など。住民票は大阪にあるけれども。
で、およそ5分遅れで開始。
ざっくりとした、日本の政治状況の話。
現政権と、民衆との間との乖離がひどい、という話。
日本では、フランスやロシアであったような、「革命」は望まれていない、でも、現状は変えたいと思っているという人が多いんじゃないか?という話。
そこで、変革を行う為政者としては、日本ではじゃあどんなタイプが望まれているのかというと、「水戸黄門」か「成り上がり」、と。
トップの者がボトムへ降りてくるか、ボトムのものがトップへ上がるかして、トップとボトムの間に通路をつなぐこと。(媒介者となるということ?)
東京=江戸は、「御威光」ですから、トップダウンで民衆の希望に沿う必要など一切なしという世界で、今の東京も、江戸のころからのものを残している、という話。
大阪は、古くは太閤秀吉であり、今様では、維新・橋下氏。いずれもボトムからトップへの「成り上がり」ということですかいね。
豊臣の処置が終わって、ほとぼりが冷めた後。豊国神社での祭礼は、熱狂的で、これは明らかに徳川へのプロテストを含んでいたのと、江戸式の統治方法ではだめだよという駄目出し。(的なことを言うておられましたが、自分的には要出典。どこの豊国神社の縁起を見ればよいのだ?)
で、橋下氏が一時持て囃されているのは、大阪原理によっての変革を希望している人がいっぱいいるんじゃないかという話、今は維新に対しては危惧を持って見ている、とのこと。大阪アースダイバーの最後に維新を話題に取り上げてはりましたしね。
ここで、その大阪原理についての話。
シェークスピアの言葉を引用して「きれいはきたない、きたないはきれい」
この矛盾を持って生きてるのが人間であり、それはあるがままの存在である、と。で、この矛盾を呑みこんで動いているのが大阪原理、と。
東京は、「きれいはきれい」で、ええかっこしぃ、という評。
「きれいはきれい」「きたないはきたない」とやってしまうと、とても生きづらい世の中になるでしょう、と。
ここで宗教の話になる。
矛盾を失くすために異端をばっさりとやっちゃう類のところを念頭に置いた話ですなぁ。宗教の話になったけれど、仏教の話が出ない辺り、本当にもう宗教的な殻は取り去るべきだというところに到達しちゃったんですかね。中沢さんは。宗教的なものが宗教の殻をかぶって大事なものを守り通してきたけれど、この殻をぶるぶると振るい落としていかねばならないということを言うてはったし、、、これは何に書かれていたんだったか、ひっくり返してみても見つけ出せぬ思い出せぬ。
ちなみに、日本はキリスト教的なものにはなじめていない、という話もされていて、その例として御自身を挙げてはりました。中沢さんは、曾祖父が洗礼を受けてキリスト者になってはりますからね。で、父親は共産主義者だし、自分はチベット行くし、と。まぁこの辺りはいろんなところで書いてらっしゃいますね。
あ、もう一例(例とは言えないけれどもw)として、山風先生の「姫君何処におらすか」の話を出さはりました。
私は「これを例に出すか!」と吹いたんだけれど、他、誰も笑ってる人いなかった。。。まぁ、ほとんど知られない話でしょうしね。
「女は存在しない」せりか書房 に所収されている「エデンの園の大衆文学」で、この話を取り上げて、宗教性の感覚について語ってはります。これを読んで、自分は山風先生の「忍法帖」以外のシリーズを読み始めたのでで、だいぶん感慨深かったですわ。
閑話休題。
アースダイバーの話に移行。
京都はアースダイバーやらないのですか?と、よく言われるけれど、京都でやっても面白くないでしょうwと。意味が記号化されてしまっていて、掘り起こせるものがない、というような表現でした。確か。
京都は、プランニングされた都市で、その中心は何かと言ったら、北極星です、と。北極星からの南北のラインが中心で、これは本当の自然よりも、天文学のような人工のものが主にされていて、言うなれば、脳内でつくられてそれを顕現化した都市である、と。
比して、大阪で重要なのは東西軸で、これは太陽の通り道で、=自然の軸ですよ、と。で、自然ということは、「きれいはきたない、~」ということで、そういう矛盾を含んで、しかもそのバランス感覚を持っていることだ、と。
ここら辺から、ようやっと大阪アースダイバー本編の話に入っていくわけですが、そうなると書籍に書いてある話メインっすので、メモをほとんど取ってないです。
で、断片だけ。
蘇我氏VS物部氏=仏教VS物部神道=レディーガガVS小林幸子
四天王寺における、鷹とキツツキの戦い。
矛盾したものが共存しつつ戦いつつ、動的秩序を維持する。
敗者を排除しない。敗者の遇し方。敗者の可能性。
負けるが勝ち、ということ。
どのタイミングか忘れたんですが、ワイヤレスマイクの混信があって、よその声がスピーカーから響いてきたり。「維○の妨害ですね」なんて思わず吹いた。
さて、そこら辺で、一時限目のお時間到来。
休憩をはさんで、江氏との対談になるところが、ここで一日目と同じく本日も、全く放置されていたレジュメ「大阪文学にひそむもの」「二流文楽論 織田作之助」 をプリントしたもの、を元に文楽について一席。
当初、30分休憩して開始ということだったんですが、中沢さんがエンジンがかかってきていて、「時間空いたら忘れちゃうよ。話は続けるので、休憩したい人は休憩すれば」なんて言うてはりました。
そうされると、トイレ我慢する人多数ですよ。たぶん。
で、結局15分休憩の後、開始。
これも、断片のみ。
一流の定義。東京では、一流=「きれいはきれい」=緻密。単一原理。異質性が入り込む余地がない。
これに対して、大阪は、「二流」であることを求める。
例せば、千利休の利休茶碗=朝鮮での日用品である、飯茶碗。
これは、価値転倒を目論んだわけではなくて、「二流」(あるいは「三流」?「四流」?)であることに美を見出している、と。
茶道のお茶って、覚醒作用があるわけだから、茶会って要するにヤバイ飲み物のパーティーですよね?と。
二流を目指した文学。例として、ジョイスのユリシーズとか。簡単な評として、上品なことばと下品なことばとが同列に取り扱われている、というような意のことをおっしゃっていたと思います。(私は、ここで「宮武外骨」とメモっていたので。。。およそそんな感じだったと)
文楽の「二流」性。たとえば、心中物やら、獣婚譚やら、到底誉められたものではないものが多い。(いずれも常識からの脱出?人間の世界からの脱出?)
その後、中沢さんと、月刊島民の江氏との対談。
海民と、だんじりの話でしたね。
ここも、セッションを楽しむような感じで聞いてしまったので、メモとりなしです。
十三の話とか面白かったです。
結。
時間が経つごとに、記憶が断片化して、まとまりは欠くものですね。。。トシだな。
で、総じて、「二流」であることとか、「『ええかっこしい』になりようがないこと」とかいう表現が、頻出してました。個人的には、「真宗」の悪人正機的なところを感じ取ったんですが、他の聴衆の方々はどう感じられたんでしょうかね。