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今日、床屋さんへ行ってきた。
床屋さんではテレビつけてはったから、見るともなく見てた。
地震に際して避難民の態度が従容としているということを、海外メディアが称賛しているんだから日本人としてこれを誇りに思うべきだとかナンタラカンタラ。
統治者の側から見たら、確かに賞賛に値するんだろうな。うん。あぁ。
と、あえて否定的に言ってみる。悪いわけじゃないけれど。わざわざこれを以って称賛されるところを、日本のメディアが「おめーら誉められてるから、日本人であることを誇りに思え」って言うのはどうかと思うな。
この落ち着きは、善性をアレしてるところもあると思うけれど、基本、諦念だろう?
まぁいいや。
んで、これ。
頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。 (はてな匿名ダイアリー)
http://anond.hatelabo.jp/20110407001402
非被災者として、これを突き付けられたときにどう思うか反応するかってところで、自分の本性が暴露されるよね。
こんな被災をした経験がない自分は、実体験として被災者の気持ちになったことがないわけだ。
でも、これも本音なんだろうなと思う。
たぶん、このネガティブな本音を否定するのも、無条件に肯定するのも、違うんだろうな。
ボランティアとか考えてる人はこの部分を認識して、その上で行動されたく思うのです。
善なのか偽善なのか、その辺りを認識してる人もしてない人も。
しかしまぁアレだ。
無私ってことを考えてしまったなぁ。。。
自分もとりあえず一発目募金するときに金額を入力するところで、数瞬考え込んだことを想起した。
金額は自分のできる範囲で、って考えた時点で無私じゃない。多分なパーセンテージで「私」が介在してる。じゃあ、無私を貫徹する行為というのはどう行動することになるのかというと全財産を突っこむってことになるのか?とか。
まぁ、そんなの無理なんだけどな。ていうか俺には無理だ。だから出来得る範囲でアレした。
ここで再び、歎異抄からアレしてくるけど、自分は真宗の人間ではない。実家の宗旨は真宗だけどな。
で。第四章だそうだ。
「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。(後略)」
ボランティアにしたって、募金活動にしたって、聖道の慈悲だな。
「しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めて有難し」なんだから、被災者のネガティブな本音にぶつかったときに、浄土の慈悲に到達してしまえない我々としてはそれをどう受け止めるのかということは重要だと思うわけだ。