久しぶりに激しい物語を見た。
まだ完結してはいないようだが、自分の中では結末は見えている。でもその自分が想定している結末を裏切ってほしいという淡い期待のもとにそれをたぶん最後まで見るのだろう。
Red Gardenが、それである。
登場する少女達は、のっけからわけもわからないまま化け物との闘いに放り込まれ、本当はもう死んでいて、今は化け物と闘うために仮の肉体を与えられているにすぎず、闘わなければ救われることもなく本当の死が訪れると教えられる。
そしてその自らの望まない理不尽なまでな生を何者かもわからない誰かによって与えられている現状を思い知らされる。
たぶん彼女達はその自分達の置かれている状況を把握し、どうすればいいか考え、対応するための知識を身につけ、仲間と結びつきあい、化け物と闘うことによってのみ生を与えられる今の偽りの生を乗り越え、本来の自分の肉体を取り戻し、幸福な日常に帰還していくのだろう。
そう思って今自分はこの物語を眺めている。
それが人生を表現していることは明白だ。
それも生命を生かされているという、多分にグノーシス的な思考のもとに創られていることはあからさまだ。
この宇宙は全知全能な神が創ったらしいが、それにしては不備が多すぎるではないか。この宇宙を創ったのは本当の神ではないに違いない。この悪神の創った贋の世界を抜け出して、真実の宇宙に到達しなければならない。
しかしそれは、この世のほかに、真実の希望に満ち溢れた世界が存在しているという、あまりにもオプティミスティックな観念に突き動かされてはいないかと、自分は危惧する。シナリオの第六話にして、偽りの生を受けている少女達が、本当の自分の肉体を取り戻すことができると知らされる。つまり「希望」を与えられるのだ。だがそれは本当に「希望」なのか。本当にそんな簡単に希望が知らされていいのか。
グノーシス的なものが撤退してしまって久しい今の時代において、あまりにもそれは時代錯誤な安易な希望ではないだろうか。
偽りの生に絶望した少女が選んだ本当の死とベクトルの方向は実は変わらないのではないだろうか。
そんな否定的な物言いをしたけれども、久しぶりに、その背後に流れているものが気になる物語に出会ったのですよ。
lain以来。
だけれどもこれが今の時世に対する警句として創られようとしているならば、そのあまりにも日本人的な楽観主義と基督教的世界観とが手を結びすぎていて、この大洪水のままであろう世の中で方舟たり得ないだろうと思っている。
だから娯楽作品として面白くしてほしいというのが自分の表面的な期待なのです。
ミュージカルじみた演出と、最初の頃の作画にはちょっと気を削がれたが。
つか笑った。
PR